二次の悔しさ
何かの感想を書く。何かをおすすめする。
それは楽しい。自分が楽しいと思ったことを、アウトプットする行為。
でも、悔しい。
誰かの何かをおすすめするだけの人生は、悔しい。
ここへきて、消費マインドから生産マインドに興味を持ち始めた。
もちろん、誰かの何かをおすすめすることは、悪いわけではない。本当にいいものなら、是非そうしたらいいだろう。
誰かの何かをおすすめし続けることが、結果的に私が産み出したことになるかもしれない。
でも悔しい。それは二次情報だから。
一次情報を扱いたい。
一次情報って、強いなと思う。強いって何って、希少価値があるというか、なんというか。
例えば、本から知識を得たとして、それで最先端にいるつもりになっても、それは実は遅くて。
というのも、作者はその経験を本にする前から(あるいは本を作りながら)しているわけで、その人のその体験こそが一次である。
本になったものを新しいと錯覚して取り入れても、それは二次情報にすぎないのである。
情報には、鮮度があると思う。
新鮮であればあるほどいいときもあるし、熟せば熟すほどいいときもあるだろう。
私は、新鮮な情報を取りに行く、扱う、ということがしたくなった。
大学へきてよかったことの1つに、情報は自分で取りに行くものだということを学べたことがある。
あらゆることは、情報である。データである。
生情報、生データにこだわりたい。
ネットの二次情報を、ほんとかよと笑いながら実践して、なんだ、こんなもんかみたいに思いたい。
自分の感覚、自分の解釈、自分の軸
そういうものに自信を持ちたい。
誰かがおすすめしてたからとか、ネットで好評価だったからとか、それで動くのはなんか悔しい。
自分で取りに行く。そして、自分で取った情報をみやすく加工したり整理したりして、私を構成する一部になるまで仕上げて、発信して、私はこんな人だよ、はもちろん、他の人に情報を提供する側になりたい。
新規性と、独創性がほしい。
そして、それらの再現性を保証したい。
いわゆる研究というやつかもしれない。