マイペース

手を抜くことを覚えた。

と言っても、本当に手抜きをしているわけではきっとない。今まで真面目にやり過ぎたから、ちょっとくらい休んでも、それはきっと休んだうちに入らないだろう。

 

正直に言うなら、手を抜くことを覚えたかった。息苦しかったから。休み方を知らない自分を自覚していたから。自分を大切にしたかったから。

 

だから、最近、行きたくないとか気分がのらないとか、なんか調子悪いとか、そういうときに、思いきって休むことにしていた。

 

損得勘定とか、行か"ねば"とか、そんなの甘いとか、そういうのから、自分を解放してあげた。

 

すると、今までやってたことは、たいして自分のなかで重要ではなかったような、そんな気になった。何かに駆られてやっていたのかもしれない。投資した分、たくさん得ようみたいな、言ってみれば、食べ放題でもとをとろうと必死になって食べて、吐きそうな思いをして、ちょっと後悔するような、そんな欲が自分の中にあったことがわかった。

 

自然と、批判されてもまあいいかというスタンスになれた。もし仮に、何で来ないのと怒られても、胸を張って自分を優先したと言えるような謎の自信がでてきた。だいたい、私の代わりなんていくらでもいる。きっと。私がいないなら、誰かが埋め合わせる。この世界は、私がいなくてもまわる。

 

そうすると、自然と、私じゃなきゃ成り立たないような、私だからこそのことを、めちゃくちゃ大切にしたいと思えた。引き寄せの法則かわからないけど、友達から会おう、と連絡がきた。ありがたい。私じゃなきゃ、なりたたないことだよね、きっとこれは。

 

私の中に、余裕を、感じる。

 

でもそれは、一歩間違えると、現実逃避という名の余裕であるような気がしてならない。

 

最近、幡野さんのブログや、質問への返答を毎日のように読んでいる。

 

幡野さんの考え方は、私の憧れである。かっこいいと思う。

 

ただ、私には、自信がない。だから現実逃避かもしれないとか思ってしまうのだ。

生きたいように生きてやりたいことをやって、やりたくないことはやらずに、力を抜いて生活したいと言い切る自信がない。

 

かっこわるいなあ、自分。

人それぞれ幸せを感じるポイントは違って、冷静に考えても、というかどう考えても、私が幸せなのは、こういうとき。それは、近くのみんなが幸せなとき。あまり大きなコミュニティに目を向けるほどの勢いは今のところない。

厳密に言えば、関わってきた世界の人たちが幸せなら、幸せかもしれない。

裏を返せば、関わってきた世界がちょっぴり小さいのかな。意図的に広げようとはしてこなかったからね。

 

自信がないとか世界が狭いとか言ってみたけど、たいしてネガティブでもなくて。

それこそ余裕が出始めたから、自信はつければいいし、世界は広げたいなら広げればいいと思っている。

 

私が生きやすいように、私を導いてあげればいい。シンプル。

 

 

中国語と韓国語は、一時休止します。

自分の中で、今は乗り気ではないので。

そうやって、自分に忠実でいこう。