孤独は山になく、街にある

「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の『間』にある。」

 

哲学者の三木清さんの言葉だそう。

今日、たまたま見かけた、とっておきたくなる言葉だった。

 

こめです。孤独をテーマに今日書きます。

 

1.なぜこの言葉に惹かれたか

あ、そうかもしれない、と、納得できたから。その通りかもしれない、と、自分が感じていたけど言葉にはなっていなかったそのモヤモヤを、スッと表現するような言葉だったから、気持ちがよかった。

誰かと繋がれるからこその孤独、周囲に人がいるからこその孤独。もちろん山で孤独な場合もあるでしょう。だけど、三木清さんの孤独そういう孤独というニュアンスではないと私は感じた。もっと悲しみを含む孤独、色で言えば灰色とか暗い青のような。

 

2.私の思う孤独とは

意識するからこそ、孤独を感じるのかもしれない。この世に自分以外の誰もいなければ、孤独という概念すらない。敵がいなければ負けたもなにもない、勝負すらすることができないのと同じだ。

孤独はそんなにネガティブなワードではないとおもう。むしろ、積極的に孤独の時間をとることで心身のバランスがとれるようなところもあると思う。四六時中人と付き合うことができたらいいのにと思うこともあるけど、そんなの幻想かもしれない。私はとくに、自分ひとりの時間がなくなるとバランスが崩れる傾向にある。

 

3.孤独の過ごし方からみる自分

心に余裕がなくなったここ最近の私は、孤独が前よりしんどくなっていた。自覚がある。

一人でいるのが嫌だというよりは、一人でいることを無意識で避けていた。暇さえあればスマホをいじり、誰かとコミュニケーションをとっていた。異常だとおもう。

 

一人でいても、とくに何を意識的にするわけでもなかった。孤独を噛み締めることもなかった。孤独が不安へと繋がってしまっていた。

 

昨日、心機一転、自分の内面を整理して、孤独を味わおうという気分に心からなれた。

するととても穏やかである。

孤独を味わうことは自分に意識を集中させることかもしれない。自意識過剰という意味ではなくて、自分と対話するという意味合いで。

 

1から3まで孤独について考えました。

 

人の間にしか孤独は存在しない。孤独は悪ではない(善でもないだろうが)。孤独を味わうことは必要かもしれない。

 

来るときも去るときも人は何も持っていない的な言葉と通じるものがある。

物質的な豊かさよりも、精神的な豊かさを深めたい。

 

豊かというのは、味わい尽くすことだと思う。自分のなかでせめぎあういろんな感情をただ感じること。

 

そう考えると、物質的な豊かさのときの豊かさだって、なにを物質として考えるかによっていろんな解釈ができる。物がないこともある意味豊かかもしれない。

 

 

ちょっと脱線もしましたが、最後に、本の帯で本を紹介するとか、感想を書いたりとか、あるじゃないですか。それをしようと思います。冒頭の三木清さんの言葉について私が帯を書くなら。

 

「孤独の善悪ではなく、ただ、孤独の存在様式について。そこにある孤独を、自分のフィルターを通して、どういう風に見るか、受け止めるか。」