「365日のシンプルライフ」を観て:脳内シンプルライフ

GW後半戦。フラっとTSUTAYAに入ってサクッと借りた映画、「365日のシンプルライフ」を観ました。

 

ーー

 

・持ち物すべてを倉庫に預ける

・1日1個だけ持ってくる

・1年間続ける

・1年間何も買わない

 

幸せを見つけるために、この4つのシンプルなルールのもとで暮らす様子を描いた映画でした。何にもない部屋に真っ裸の主人公が立っている冒頭のシーンを見て、全てを預けるって、そういうことか!と衝撃を受けました。

 

主人公はすぐに、暮らすために必要なモノはたいしてないことを知りました。

ある時を境に、モノを持ち帰るのをやめます。

もうこれ以上、なにもいらない、と。

この映画のキーマンでもあるおばあちゃんとのやりとりや、新しくできた彼女と過ごすうちにモノや幸せについての価値観がどんどん変わっていきます。

 

ーー

 

こめは最近、モノを全部捨てたい衝動に駆られていました。何となく何もかも嫌で、変えたくて、スッキリしたいと思っていました。何気なくする行動には自分の無意識が反映されているものなのですね。

 

3年前、人生で初めて引っ越しをしたこめは、冒頭の何にもないシーンを見て懐かしくなりました。さすがに服は着ていたし、備え付けの冷蔵庫もあったから、全く同じ状況ではないけれど。

 

正直、うらやましいと思いました。主人公のことを。

モノを捨てる勇気も、倉庫を借りる勇気も、倉庫に持ち物をすべて預ける勇気も、私にないなあ、と。いいなあ、やってみたいなあ、と。

 

疑似体験はできたけど、自分の生活はなんにも変わっていません。観終えて、部屋を見回して、ため息をついてしまいました。

 

私、一体いくつのモノを持っているんだろう。

リストアップしたい衝動に駆られる。

 

「脳内シンプルライフ」をやってみようと思い立ってしまった。

 

脳内シンプルライフは、文字通り、脳内でこの映画と同じことをやってみようという試み。そう考えると、食材はどこまで買っていいのか(ストック品はあり?)とか、トイレットペーパーも最初はないのかなとか疑問ばかり。誰も疑問には答えてくれないので、とりあえず、私的に厳しめの条件でやろうと思います。あ、寒くもなく暑くもなくな5月スタートという設定です。

 

何もなかった頃のこの部屋を想像するところからスタート。

 

主人公はまず、コートを持ち帰ります。寒いフィンランドならではなのかなと。

男性と女性でものに対する考え方が違うと映画内でおばあちゃんが言っていました。

 

ああ、最初に持ち帰るものが決まらない。

モノっていらないよねそんなにってこの時点で思う。

引っ越してきたときは、立方体の冷蔵庫(ホテルの部屋によくある感じの)しかなかった。洗濯機も焦って買わずに保留にしていたから、しばらくは土日に近くのコインランドリーへ行ってまとめて洗濯していた。お湯も出なかったから、駅前の銭湯に行った懐かしい思い出。というか、服もタオルもなかったら洗濯も風呂も入らないよね。

 

そう、なくても何とかなるんだよね。

 

1.スプリングコート

1人でいて、誰とも連絡が取れない上に、外に出られないっていうのはかなりの問題なのではと思う。とりあえず時期的にスプリングコート。コートにしたのは上下隠せるから。1枚でなかなか有能だねえ。毛布とかでもいい気がしたけど、さすがに毛布にくるまって裸足でコンビニには行けない。

 

2.トイレットペーパー

トイレットペーパーなんてなくても大丈夫かもしれない。でも私には必要。なかったら絶対ストレス。

 

3.ジーパン

とりあえず着るものが欲しい。恥ずかしくて外へ出られない。外へ出られないと買い物へも行けないし、モノを持ち帰っても来れない。ジーパンなら多少洗わなくても平気だろうし、ジャージよりは一応かっこがつく。

 

4.スニーカー

靴がないとやっぱり出かけるのもしんどい。晴雨兼用靴とかのほうがよかったかな。

 

5.シャツ

少し厚手の生地のチェックシャツってところ。ボタンを上まで閉めれば見た目はなんてことなくなるし、ぴっちりしてないことが今は重要。パーカーとかだと下に何も着てないのが首元からばれちゃうからね。

 

6.マットレス

そろそろ床で寝るのはキツイ。段ボールを敷いて寝ていたとしても限界よね。睡眠は大事。

 

次で1週間。部屋の照明は意外といらないのでは?娯楽用品も特にない今は、やることもないから日が暮れたら寝てる(ことにしている)。

 

7.タオル

そろそろ部屋のシャワーを使いたい。おそらく限界です。

 

8.パンツ

なくても平気なのはわかるけど、あったほうがQOLが確実に上がる1品。

 

9.ブラトップ

ブラジャー兼肌着のような。取り急ぎ。プチストレスをためるのはよくない。

 

10.毛布

夜は冷える。せめて一枚欲しい。

 

11.歯ブラシ

手で磨くのもうやだ。

 

12.眼鏡

目なんか悪くするもんじゃないですね。裸眼で見えるに越したことはないです。もっと目をいたわろうと思った。今まで裸眼、結構ストレスだったよ。

 

13.パンツ

もう一枚欲しいなあ、なにかと。

 

14.洗濯石鹸

これで水洗いから脱却。清潔感大事。

 

さて、脳内で2週間経ちました。

想像するのは結構疲れました。ここで今日はひとまず終えて、また明日からゆっくり考えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

厳しさ

GW初日。なんにもせず、終わった。

しまるところがないから、ゆるむところもない。

そう感じ、目を閉じた。

 

メリハリがない。緩急がない。

ないものばかりを数え上げ、眠りにつこうとする。

 

とくになにもしなくても生きられるように、楽をできるように、どんどん発展してきた世界。それが成功しつつある世界に生きている。

 

いろいろなチャンスが至るところに落ちていて、誰しも望めばなにかしらできる、恵まれた環境。

 

人生は、壮大な暇潰し。

暇を楽しく潰したい。

 

"効率的、合理的、それこそ全て。

無駄なものは排除。人生一度きり。"

 

その類いの言葉に触れるたび、そうなりたいと憧れた。ないものねだり。

 

その憧れが自分を苦しめていたのかもしれない。

 

真夜中だというのに、アパートに面した大通りを走る車の音が響き渡る。

 

いつの間にかため息も出ないほど疲れきっている自分を自覚する。

 

「すぐに役立つことは、すぐに役立たなくなる。」

 

昼間、どこかで目にした言葉。

すぐに役立つことを求めること、そのペースについていくこと、それに一生懸命だった。

 

振り返れば過去に何かに夢中になっていたとき、これがなんの役に立つかなんて、ちっとも考えてなかった。ただただ、夢中だった。

 

なんの役に立つか。

これがこういう風に役に立つだろう。

大いに結構。

でも自分には必要ないのかもしれない。

 

役に立つか立たないか

効率的か合理的か

それが最短ルートなのか

 

そういう考えを一切排除したい。

一旦リセットしたい。

 

隣の部屋の住人がシャワーを浴びる音が壁越しに聞こえる。

 

それなんのためにやってるの

 

私が言いがちな言葉。言いがちだった言葉。

 

何のためとかじゃない。やりたいからやってるだけ。

何のためとかばっかり考えてるから

自分の真の気持ちがどこかへ消えたんだ。

 

壮大な夢、もったフリしてみ

持つのが怖いなら、疑似体験

役者になったつもりで

 

 

地元に面白いコミュニティをつくりたい。

どんなかたちでもいい。

ただ、みんなが集まれる場所を。

みんなが集まって、わいわい、いろんなことができる場所を。多様性が許される場を。

 

大学入ってから地元の友達と地元で会ったとき。

将来何すんのって。そんな話になったとき。

 

みんなでなにか面白いことやりたいよねって。思わず口から出たのが思い出せる最初。

 

何をするじゃなくて、誰とするか。

自分と今まで関わった全ての人がそこで繋がって、楽しく過ごしたり、新しいことを産み出したり、そういう場。

 

それやって、なにになるの。

それやって、なにがしたいの。

意味あるの。

 

違う。違う違う。

やりたいんだよ、なんでかわからないけど。

やってみたいんだよ。なにするかわからないけど。

 

外でクラクションが鳴る。

 

厳しさ、刺激を求めているのかもしれない。

人生は壮大な暇潰し。

その暇に、なにをしようか。

寝返りを打った。

 

 

 

 

孤独は山になく、街にある

「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の『間』にある。」

 

哲学者の三木清さんの言葉だそう。

今日、たまたま見かけた、とっておきたくなる言葉だった。

 

こめです。孤独をテーマに今日書きます。

 

1.なぜこの言葉に惹かれたか

あ、そうかもしれない、と、納得できたから。その通りかもしれない、と、自分が感じていたけど言葉にはなっていなかったそのモヤモヤを、スッと表現するような言葉だったから、気持ちがよかった。

誰かと繋がれるからこその孤独、周囲に人がいるからこその孤独。もちろん山で孤独な場合もあるでしょう。だけど、三木清さんの孤独そういう孤独というニュアンスではないと私は感じた。もっと悲しみを含む孤独、色で言えば灰色とか暗い青のような。

 

2.私の思う孤独とは

意識するからこそ、孤独を感じるのかもしれない。この世に自分以外の誰もいなければ、孤独という概念すらない。敵がいなければ負けたもなにもない、勝負すらすることができないのと同じだ。

孤独はそんなにネガティブなワードではないとおもう。むしろ、積極的に孤独の時間をとることで心身のバランスがとれるようなところもあると思う。四六時中人と付き合うことができたらいいのにと思うこともあるけど、そんなの幻想かもしれない。私はとくに、自分ひとりの時間がなくなるとバランスが崩れる傾向にある。

 

3.孤独の過ごし方からみる自分

心に余裕がなくなったここ最近の私は、孤独が前よりしんどくなっていた。自覚がある。

一人でいるのが嫌だというよりは、一人でいることを無意識で避けていた。暇さえあればスマホをいじり、誰かとコミュニケーションをとっていた。異常だとおもう。

 

一人でいても、とくに何を意識的にするわけでもなかった。孤独を噛み締めることもなかった。孤独が不安へと繋がってしまっていた。

 

昨日、心機一転、自分の内面を整理して、孤独を味わおうという気分に心からなれた。

するととても穏やかである。

孤独を味わうことは自分に意識を集中させることかもしれない。自意識過剰という意味ではなくて、自分と対話するという意味合いで。

 

1から3まで孤独について考えました。

 

人の間にしか孤独は存在しない。孤独は悪ではない(善でもないだろうが)。孤独を味わうことは必要かもしれない。

 

来るときも去るときも人は何も持っていない的な言葉と通じるものがある。

物質的な豊かさよりも、精神的な豊かさを深めたい。

 

豊かというのは、味わい尽くすことだと思う。自分のなかでせめぎあういろんな感情をただ感じること。

 

そう考えると、物質的な豊かさのときの豊かさだって、なにを物質として考えるかによっていろんな解釈ができる。物がないこともある意味豊かかもしれない。

 

 

ちょっと脱線もしましたが、最後に、本の帯で本を紹介するとか、感想を書いたりとか、あるじゃないですか。それをしようと思います。冒頭の三木清さんの言葉について私が帯を書くなら。

 

「孤独の善悪ではなく、ただ、孤独の存在様式について。そこにある孤独を、自分のフィルターを通して、どういう風に見るか、受け止めるか。」

 

 

 

 

 

 

 

 

スマホ依存症疑惑

UBhindってアプリ、使ってます。こめです。

 

UBhindは、スマホの使用履歴使用時間を可視化するためにインストールしました。

そんなこと可視化されるってことは、いろんな履歴がこのアプリに蓄積されるんだろうな、ちょっと怖いなと思いつつ、面白いので使ってしまっています。

 

最近スマホ使いすぎです。可視化されなくても感覚的にわかります。

学校で友達とあんまり話す機会もなくなり、一人でいることが増え、そのわりに趣味とかもないので、なんとなく、目的なく、スマホつかうことが増えました。

 

じゃあどれだけ使ったのか。反省会します。

 

3/1~3/31まで(UBhindより)

スマホ使用時間 : 7日間14時間36分

画面をつけた回数 : 14446回

アプリの起動回数 : 11156回

 

単純に、やばいぞ、私

スマホに7日間費やしてるぞ

5桁の回数ってなんやねん、、、

 

ちなみに4月はまだ残り数日ありますが、現時点で3月を上回る使用量・回数。

 

そりゃ疲れるわけだよ。片時も手を離さなければ。

人と会わなくなったからとかそういうのは言い訳で

これではスマホに使われてしまってる!!!

 

危機感!!!!!!!

 

何が悪いって、目的なく使ってるのがよくないと思うんですよねぇ

暇潰しする!とか、ちょっと息抜きのため!って使うの、全然ありだと思うんですけど、わたしに関しては、やることないとつい手が伸びるってやつで、、

これは依存と言ってもおかしくないのではレベルですねきっと

 

31日間のうち7日間スマホなんて、、、

わたし何してるんだろう、、、

 

大反省してます

そりゃ、スマホの電池もすぐなくなるわけだ。

こんなにスマホさわれるなんて、忙しくなんか全然ないね。1日の使用時間決めようとまでキツキツに制限してもあんまし意味はなさそう。だから、いつさわるっていうのを決めようと思う。

 

朝、電車待ちの時

(昼、ご飯食べる前)

夜、電車待ちの時

 

基本この時にコミュニケーションツールをさわることに今しました。

ブログや音楽を聞く、のは、そうしたいときなので、いつでもいいです。

 

このアプリ、使用時間の多いアプリもわかるのですが、もっぱらChromeとLINEとかが多いのです。

 

調べものって、そんなに時間かかります?

どうしても調べたいことをさくっと調べたら、携帯をとじよう。

その流れでほかのアプリとかよくわかんないWebニュースも一周しちゃうからそうなるんだよな。

 

すごいなぁ、私

そんなに集中力あるんだ

スマホ使用節約したら、どれだけ時間が生まれるのだろうか。

 

空いた時間でなにしよう。わくわくします。

 

空いた時間、自分をいたわることを意識しようと思います。

 

深呼吸してリラックスしたり、お風呂にゆっくりつかったり、お味噌汁を丁寧につくったり、家事をすませたり、早めに寝たり。

 

将来のことうんぬんより、勉強うんぬんより、今一番不足してることがそれです。

 

1日24時間あります。

3分割したら、8時間×3。

学業/睡眠/自分時間に充てたい。

 

 

9:00-18:00 学校(これで8時間(学校)+1時間(自分時間))

18:00-23:00(5時間の自分時間)

23:00-7:00(8時間の睡眠時間)

7:00-9:00(2時間の自分時間)

 

理想的な時間の使い方。自分時間には通学時間・移動時間・アルバイトも含まれているけれど、それでも時間は余るはず。

厳密に言えば、通学時間も移動時間も自分の好きなようにできるし、アルバイトも好きでやってること。嫌ならやめればいいし、近くに引っ越しちゃえばいい。その点で自分時間に含んでいいと思う。

 

あらやだ。

UBhindによれば1日3時間~5時間ほどスマホ使ってるらしい。その通りだと思う。

自分時間8時間あって、通学往復1時間、アルバイト4時間やってたら、睡眠時間削ってスマホしてることになるねそれは。

 

可視化で危機感を煽る。

今この瞬間から断スマホはじめっ。

 

1週目の目標

「携帯で時間を確認しない。」

「空いた時間は自分時間に。」

 

 

論文がわからず、悔しいです

論文の読み方を模索している、まだまだひよっこ学生のこめです。

 

恥ずかしながら、論文の読み方というか、そもそも論文とはなんぞやとか、ジャーナルってどこに存在するのとか(架空なのか実態があるのかどこに売ってるのかどれだけすごいのか)、そういうことがあまりよくわかっていません。

 

しかし、誰に何を相談しても、とにかく読め、の一点張り。

 

だいたいそういうアドバイスは、その通り受け入れます。やってるうちにわかる、やってみないとわからない、言葉ではうまく言えないっていう感覚が少し理解できるからです。

 

そこで、1日1論文、読んでみました。

 

 

まず私は、自分の知りたい分野と関連した言葉をGoogle scholarやWeb of scienceを通して検索しました。

 

・被引用件数が多い論文はいい論文

・最近出版された論文を読むべし

 

と言われていたので、被引用件数のある、最近出版された論文に限って検索をかけました。

 

そしてそれっぽいのをプリントアウトして、まず、abstractを辞書片手に訳しました。

次に、conclusionを訳しました。

そして、introductionを訳しました。

そのあとで、materials & methodsを訳しました。

最後に、results & discussionを訳しました。

 

で?

という感じなのです。正直。

 

内容はだいたいわかったつもりです。

しかしそのすごさがわからないのです。

そのすごさをわかるためにたくさんいろんなのを読めと言われているのはわかりますが

ここまでくると、近道を探したくなるのです。

 

 

なので、いい近道はないものかと、友人に論文を読んでいる話をしたら、案の定指摘されてしまいました。非効率な読み方だね、と。

 

友人いわく、論文の英語を全てコピーしてGoogle翻訳にかける、と。関係代名詞のとことかはとくに訳し方が変だが、それでもだいたい意味はつかめる。と。だいたいの意味がわかればそれでよい、と。機械がうまく訳せないところと、自分が気になったところを英語の本文に戻って、じっくり読めばいい、と。

 

目からウロコでした。なにせ私は真面目なもので、読む、といわれたらきちんと読むことしか考えていなかったのです。

 

こんな風に人に話すと近道ができることを知りました。ここでいう近道とは、楽をするという意味ではなくて、本来やらなくてもいい作業に気づいて、その部分をショートカットして、本来もっと時間を割くべき部分にまわす、というニュアンスです。

 

もっともっと、論文の読み方を模索したいです。

もちろんまだまだひよっこなので、甘くて、実際、そんなの自分でやれなのかもしれないです。

 

でも、もう常識というか、その世界で当たり前とされていることをいちいち自分の手で見つけるのに余計に時間を費やすことをやめたいのです。

 

さまざまな論文にアクセスすることができる、学校という非常に素晴らしい環境にいると思っていますが、自分の無知と勉強不足のせいで生かしきれてない気がして悔しいのです。

 

友人にGoogle翻訳を使えと言われる前、もっと非効率な方法を取ったこともありました。

 

自分が気になる題名とabstract(2018、めっちゃ最新)だが、被引用件数がゼロ(新しすぎるからか?と思ってスルー)の論文をプリントアウトしていちいち辞書使って1日かけて読みました。(基本この方法だと1日1論文が時間的体力的に限界)

 

そこで、なんと、"先行研究の結果と矛盾した"という表記に4回出会いました。

 

だから被引用件数がゼロなのかなと思った次第です。あまりちゃんと実験できてない?それとも先行研究が間違ってた?いずれにせよ、全体で見たときに、英語は読みやすいけど内容的によくわからない論文だったのです。

 

 

そこで疑問がたくさんわいてきました。

 

・なにで論文の良し悪しをジャッジするのか(英語の読みやすさ、内容のわかりやすさ、まとまり具合、詳しく書いてあるかetc)

・どうやって論文を読んだらいいのか(Google翻訳で流し読み、逐一訳す、abstractしか読まない、図表だけで十分etc)

・どうやっていい論文を探しだすのか(検索のコツetc)

・全文ダウンロードできる論文とできない論文、何が違うのか(ジャーナルにお金を払えばダウンロードできる?じゃあ払ってないのに全文ダウンロードできる論文は、いい論文じゃないってことなのか?)

・なぜそもそも論文がオープンじゃないのか(今まで、本を読めとは言われてきたが、論文を読めとは恥ずかしながら今まで言われてこなかった、誰でも全文ダウンロードできる論文もあるのに、なぜ誰もそう言わなかったのか、論文を読む体力&能力がないと思われていた?現にないが。論文という存在自体大学ではじめて知ったし、卒業論文修士論文もジャーナルに投稿して公になることはなく、学校内で保管されているだけなんて知らなかった)

 

 

 

ここで、知らなかった知らなかったってほざくだけで終わりたくないんです。

なんだこの学生、論文の読み方すら知らんのか、って思われてもいいんです。

わからなくて悔しいって感じてるだけじゃなくて、ここを脱するためにあがこうとしています。

 

 

わかっているつもりです。自分で模索することが、自分を助けることにもなるし、自分を成長させること。それこそが真の勉強であること。人から教わるんじゃなくて、自分で開拓することに価値があること。

 

だから、自分で開拓しようとしています。人に聞くのも行き詰まったときに解決へ向かうためのひとつの手段だと思っています。

 

本の読み方を教えて下さい、みたいに、あまり意味のない疑問だということもわかってます。

 

本の読み方なんて十人十色だし、本の選び方だって十人十色だし、どんな本がいい本で、どんな本がよくない本かだって十人十色で、人に支持されている本はよく売れているっていうこともわかります。

 

それと一緒だってこと、ちょっと想像すればわかります。

 

でもちょっと、あまりにもわからなすぎて聞きたくなってしまいました。

 

本というものを知らない人は、読み方がわからないから本に手をつけない。それでいいのかもしれませんが、もし本に手をつけたらもっと面白い世界が待ってるかもしれないってこと、あると思うんです。

 

今私は、論文というものを知らない人で、読み方がよくわからないです。じゃあ読まなきゃいいのかもしれませんが、せっかくちょっと頑張れば読める環境と時間と英語に対する意欲があるので、ここで諦めず、論文にしがみついて、その先の新しい、面白い世界を少しでも覗いてみたいのです。

 

だから、いろんな人がどういう風に論文を読んでいるかとか、気になってしかたありません。読み方に正解はないでしょうけど、私なりの論文の読み方を発見するヒントになると信じています。

 

とにかく、今、悔しい!

わからないこと、わかるようになりたい!

色々書いたけど、純粋にそれ!

 

こめでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不器用なわたし

とても久しぶりに、ブログをひらいた。

自分の過去記事を、全部読んだ。

風邪を引いて、なんとなく暇だからである。

 

見方を変えれば、1ヶ月以上、ブログを更新する心の余裕のない日々を送っていたということになると思う。だから風邪を引くんだ。

 

過去記事を読んで、自分で言うのもなんだけど、つまらないわけではないなと感じた。

つまらないわけではない、という表現にしたのは、さほど面白くもないからである。

 

取り上げる話題やテーマが、面白くないのである。

 

そんなことに頭使ってないで、もっとほかのこと考えたら?と、言いたくなることがある。特に内面世界の話のとき。そんな話書いてどうすんのと思うけど、当時はいっぱいいっぱいで、毎日そんなことばっかり考えてたんだと思う。今でもそうだけれど。

そう考えると、まだ外に発信していた私は元気だったみたいだ。ここ1ヶ月、自分に閉じ籠った私は、もっとこじらせて体調を悪くした。

 

でも、それでいいんだと思う。その時はそれが書きたかった。それだけだから。書きたくなければ書かなきゃいいし、書きたきゃかいたらいい。ブログは誰に強制されてもいない。

 

 

この1ヶ月、いろんなことが起きた。

起きるあらゆることを、自分のせいにした。

心に余裕がなかった。

今でもどこかに、あのときああしてればとか、こんな自分だからとか思う自分が存在している。

 

"自分"を出せなかったのだ。

穏便に済ませたいとか

自分が頑張ればいいとか

これが運命だとか

そういうつまらなーい言い訳ばっかり

「嫌われる勇気」を何度も読み返していながら、内容をちっとも理解していなかったことがわかった。

 

自分でも末期だと思うのは

嫌われたくないって思って行動してるわけじゃなくて

その場では体が勝手に自分を押し殺して一番穏便にすむような、平和にすむような解決策を提案するのだが

家に帰ったり、あとでゆっくり考えたときに、フツフツと、そうじゃなかったみたいな、怒りというか情けなさがわいてくるところである。

 

家の外に一歩でると、自分を出さない自分へと変貌する。

 

その場ではなんとも思わなくなる。感覚が麻痺している証拠だし、なにより自分を大切にできてない。

 

あとから何を思ったところで、時すでに遅しだと思う。

しかもそれって、あまり他人に理解されない。嫌ならなんでその場で言わなかったの、って言われる。その場では思わなかったんだもんとしか言いようがなくてつらい。

 

だから最近は、自分に忠実に生きている人を見つけては、勉強している。

 

そうしはじめたところで、気づいた。私の友達には、自分に忠実に生きてる人だらけだという事実に。

ないものに憧れるってほんとなんだなとつくづく。師は周りにたくさんいました。みんなありがとう。

 

嫌いなことは嫌いと言う

無理に好きになろうとしない

嫌なら距離をおく

 

この逆をいってた私は、なにがしたかったんでしょう。完璧超人になりたかったとしか思えない。そんな無謀なところも今ではすきだよ、私。

 

ねっとりじめじめ、嫌だと主張するんじゃなくて、明るく嫌だと主張する。そんな方法を最近学んだ。だからやってみた。不思議と嫌われてない。むしろ、好感度が上がった気がした。謎の現象であった。

 

いや、謎ではない。

自分に忠実に生きてないほうが、見苦しいことに気がついた。内面と対話することが多いせいか、私と似た思考回路を持つ人と出会うことが増えた。増えたというよりは、気づくようになったのかもしれない。今まで人のこと上っ面しか見てなかった気がする。だからといってすべてを知った気になるつもりもさらさらないが。

 

そして、似た思考回路を持つ人と一緒にいると、決まって思うのが、生きづらそうだな、こじらせてんな、と。

 

他人は自分の写し鏡と言うけれど、まさに。

 

そんな他人を見てたら

自分も、なんか反省した。

自分に申し訳なくなった。

 

だから、好き勝手やろうと

人にわざと迷惑かけるようなことするんじゃなければ

なにやってもいいんだって

 

でも、現実問題、そううまくはいかず

やらなきゃ、みたいなど真面目の私の性格は急変するわけでもなく

日々ちゃんとやることやって、その上で好きなことやろうと頑張ってて

 

そしたら、ガタがきた。

何してても、だれといても、急に涙が出てくるみたいな。

いつ涙のスイッチ入るかわからないというか。

 

はたからみれば非常に精神不安定だとおもう。この状況が友達に起こっていたら、とりあえず休みなさいと言うと思う。

 

でも頑張ってしまった。

そのやらなきゃいけないと思ってることって、ほんとにやらなきゃいけないことなの?

 

根本的に、だ。

 

その通りで、決してそんな頑張んなくてもいいことで。でも責任感と真面目さだけは他人と張り合えるほどの自信がある私は力の抜きどころがわからなかったみたいで。

 

そこがよさでもあるんだけどね。

なにやっても納得行かないって時期なだけなんだろうけど。

 

正直しんどい。

自分で勝手にしんどくしてるのはわかってる。

負のループから抜け出せない感じ。

あがけばあがくほど事態が悪化するというか。

もう何をしても無駄だみたいな諦めがでてきてしまったり。

 

だから風邪ひいたんだとおもう

そうでもしないと私、休まないから。

風邪とかいう正当な理由がない限り、心のどこかでああ、休んでしまったみたいな罪悪感感じちゃって休めない私のことを、私の体はよく理解してくれてる。ありがとうございます。

 

冒頭に内面世界の話は面白くないと書いたのにも関わらず、結果的に内面世界の話となりました。

他人は自分の写し鏡と先ほど話しましたが

ブログもまたしかりだと思います。

ブログというか、文章というか。

 

こうやって記録に残しておいて、あとで見返してどんだけ自分病んでたのさ、と笑える日が来ることを信じます。

 

最後に

今の私に足りてないものは感謝である、ということを、記事を見返したときの自分にも伝えたくて、ここに記しておこうと思います。

 

この世の全てに感謝しようとか

そういう言葉ってわざわざ言うと、どうもうさんくさいというか、信じられないのです、私は。

だからあまり書きたくはないんです。

感謝を表明してる自分を見て、みたいなのが透けて見える感謝は、感謝じゃないと思うからです。

 

心の底から感謝の言葉を述べたり書いたりするときと、そういう自分に酔った感謝は、なんとなく人に伝わると思っています。

 

酔っていようが感謝は感謝で、言わないよりは言ったほうがいいのかもしれません。その辺は、人それぞれ思うことがあると思います。

 

その上で、報告したいことが。

 

最近よく、起きたら、ありがとう私、ありがとう布団、ありがとう朝ごはん、ありがとう電車とか、何にでも感謝しなさいみたいな文章を見つけるのです。

 

そういうのが目に入るのって、今私にとって必要だからな気がする。

感謝が足りてないと指摘されることもあった。

そんなことわざわざ人に指摘されるなんて。

 

 

非常につまらない大人になりそうだったところで、風邪がひと休みくれました。大事に休みます。

 

星の王子さまに出てくる惑星に住む、ちょっぴり残念な大人にはなりたくなくて。

王子さまになりたいわけでもないけれど、どちらかというと王子さまみたいな心を持ち続けていたいと思っています。

 

つらつらと書いて、心のデトックス、ちょっとできました。ありがとうございます。

 

よし、これからも

力の抜きどころをおさえて

ゆるく過ごしていこうと思います。

 

リブ・アローン

はじめは嫌で嫌で仕方なかったことが、徐々に、あれ、そうでもないかも、っていう風に変わっていった経験って、誰しもあるんじゃないかな。

 

私にとって、それは、"一人暮らし"だった。

 

 

 

 

今週のお題、「私の一人暮らし」。

 

数年前、嫌で嫌で嫌で嫌で仕方なかったけれど、そんなに嫌うほどでもないなって最近は思える。むしろ好きなときもある。

 

なぜ嫌だったか、それは寂しいから。それに尽きる。

 

なぜそうでもなくなったか、それは慣れたから。それに尽きる。

 

一人暮らしをはじめて、隣人がバタバタうるさいとか、隣の空き部屋のリフォームの音ガチでうるさいとか、毎朝宅急便でぇーすってあちこちの部屋でピンポン鳴らしてるお姉さんが同じ人とか、クリスマスの翌日に大喧嘩してる隣のカップルとか、真夜中にPPAP急に歌い出す隣人とか、ユニットバスの寒さとか、夜中に響く、猫の、シャーっていう威嚇の音とか、そういうものに敏感になった。

 

敏感だから、暮らしづらいとかいうのではない。敏感だから楽しいのだ。

 

一人でいる寂しさ、孤独感、危機感から、敏感になったが、それに伴って新しい発見が多くて、案外楽しい。

 

もう、一人でなんでもできるんじゃないかってくらい、一通りはなんでもできる。

自転車盗まれた疑惑の時も落ち着いていたし、排水つまって水流れなくなってもとりあえずあたふたしなかったし、しょうが焼きしたいのにしょうが買い忘れても冷静でいられた。

 

自分一人のために丁寧につくる味噌汁なんて、最高よ。

 

一人のためにつくる餃子よ、そんな手間かけてどうすんねんっていうのが逆に楽しい。

 

そうして一人暮らしに慣れたころ、実家に帰省して、叫んだ。

 

冷蔵庫、デカっ!!!!

炊飯器、デカっ!!!!

洗濯機、デカっ!!!!

もう、なにもかも、デカっ!!!!

 

そう。一人暮らしのミニサイズにいつしか慣れてしまってたのだ。この前まで触っていたはずの電化製品が、大きく感じられた。

 

冷蔵庫なんて、立方体の、ホテルの部屋にある系やつだった。

炊飯器は、5合炊きから3合炊きだし。

洗濯機は、言うまでもない。

 

一人暮らししたからこそ、見慣れたはずの実家でさえ、新鮮に見えたのである。新しい発見すぎる。

 

そうそう、あと、一人暮らししてて、いざ、帰省すると、胸がアツくなる。

自分の地元の駅に近づくと、「ここが私のホーム」感がものすごく強くなる。

逆もしかりで、実家を離れると、「ホームを離れてアウェイで1人遠征」感が強くなる。

 

それがいつしか、実家から一人暮らしの部屋に帰ってくると、それもそれで懐かしいなぁ、帰ってきたなぁ、って感じるようになった。

 

あれ、私、適応したみたい。

あれ、私、成長したみたい。

 

あんなに一人暮らしが嫌だったあの頃の自分に、案外悪くないかもよって、ちょっとだけ囁いてあげたいなあ。

 

そんな日が来るなんて、思ってもみなかった。