将来どうしようかとくよくよすること
たったひとつの最適解を探しがちである。
でもそれはある種の思考停止状態なんじゃないか、ということに気づいた。
解を探して焦るときは、たいてい疲れていて、余裕がない。考えているようで、考えていないような。きっと、脳にとっては娯楽というような位置付けで、将来どうするかということについて最適解を探しているのではないか。
どうしようもこうしようもない。なるようにしかならない。それは、わかる。落ち着いて考えれば、わかる。でも、わからない。人生は選びとっていくもの、自分の好きなことをしていくこと、キャリアプランを考える、そういう類いの話を聞くたびに、焦る。
みんなどうしてるんだろう。
迷うことにたいした意味はないはずだ。将来に関しては、考える行為は重要ではなく、むしろ決断するだけでいい、シンプルなのだ。
そう、決断するだけなのだ。
迷っているのは、考えているのではない。きっと、決断を先伸ばしにしているだけ。思考停止だ。
思考すべきは、決断する、というところだ。
将来どうするかを考えてくよくよするのは、振り返ればたいした意味などない気がする。
なぜ、決断しないのか。
友人と話していて、気がついたことがある。
怖いのだ。
私が将来どうなるかということはもちろんだが、それ以上に、周囲に、なぜその決断をしたの、と笑われることが怖いのだ。
ここでの周囲は、知り合いはもちろん、今後関わるすべての人を指す。
その業界は先がないよ、なんでこの時代にそんなところに就職したの、もっといいとこいけたでしょ、えーブラックだね、福利厚生とかどうなの、えー意外、なんで院に行かないの、四季報とかちゃんと見たの、
そう言われたり、囁かれたり、指差されるのが怖い自分に気づいた。みんなに誉めてもらいたい自分に気づいた。みんなに気に入られたい自分に気づいた。
最適解を探している自分。
そんな自分を自覚して、落ち込む。
落ち込んだことに対して、また落ち込む。
そういうサイクルに陥ることがある。
疲れているとき、余裕がないときだ。
思考停止。考えているようで、考えていないルーティーン。
人に聞いたところで、自分の将来など決まるはずもない。やることは、自分で決断することだけだ。
その決断を言語化できないとダメなわけではない。言語化する必要があるのは、他人に伝えたいときだ。でも、他人に決断を説明する必要はたいしてない。言語化言語化言うけど、それは必須ではない気がする。したほうがいい、程度なのでは。
他人とは勝手なもので、私のことに関してあーだこーだ言うわりには私のことなど真剣に考えてなどないのだ。気にする必要などない。文字上では理解できる。頭では理解していないようだが。
こうしてくよくよ悩んでるふりして決断を先伸ばしにしている私は、きっと疲れているのだ。とりあえず休もう。そんな休む行為もきっと決断を先伸ばしにしているだけなのだが。
不安が解消されるのは、きっと、決断できたときだ。
決断した先で、こんなはずじゃなかったって思ってもいいじゃない。それすらも笑いに変えようよ。
わかっているのに、決断できない。
それはきっと、わかっていない。
プライドを捨てきれない自分。
そう、これはそんな自分との戦い。
こめでした。とりあえずしっかり休みます、とか言う辺り、ほんとにわかってない。思考停止。